コロナ禍におけるOTのつぶやき
新型コロナウイルスによる感染拡大が止まらない事態に突入している。大好きなクラシックコンサート、歌舞伎、寄席、博物館、美術館はもとより、研修会や勉強会等、人が集う場に行かれなくなって約1年経過しようとしている。
医療施設にOT(作業療法士)として勤務しているが、私の現場では、緊急事態時の業務にリハビリは優先順位から大きく外れ、感染症対策や情報収集、家族との連絡等に従事するような体制に組み込まれている。前職の病院では感染症(ノロウイルスやインフルエンザ)が発生すると、真っ先に集団活動の停止、フロア間の移動禁止、防護具を身に着け、ささやかな個別のリハビリと病棟の消毒や環境整備に時間を費やした。コロナ禍ともいうべき、OT活動の制限が今回も長く続いている。歌や道具を介するレクリエーションは積極的に行えない。外に出ることもままならない。行事・レクリエーションは非日常における発散や参加者とスタッフとの一体感、季節を味わう等、楽しい時間を創出するOTの腕の見せ所であるが、その機会は感染症の発生と同時に失われる。そして、塗り絵や体操など、リスクの少ない活動(“ありきたりな同じこと”とも言えるかもしれないが)を提供する他ない状況が続いている。認知症の人たちに少しでも意欲的に楽しんで取り組んでもらえるよう、日々奮闘することに変わりはないけれど、どうにも心が折れそうになることがある。そんな時、以前なら、大きな声で懐かしの歌を皆さんと一緒に歌っていたけれど、今はそれもかなわない。
命にかかわることだから、感染症対策をおろそかにすることはできない。健康、安心、安全が第一に異議はない。ただ、ずっとそれだけだと心が萎える。OTとして、今、求められていることは何か?世間一般に言われるように、“今は耐える時だ“と自分に言い聞かせてみる。何でも屋である自分を否定せず、とにかく、自分にできることをするだけだ。感染症の波が押し寄せてくる中で、明日は“ありきたりな同じこと”さえできなくなるかもしれず、そう思うと、日々を丁寧に重ねていくことが尊く思える。
閉塞感がつづくこの1年ほどの間、自分自身が作業というものに救われている(癒されている)と実感する。日記を書いたり、蓮の花を育てたり、手あたり次第楽器(ウクレレ・ギター・リコーダー)を奏でてみたり、菓子を作ったりしながら、無心になることを快く思っている。作業で人は癒されることを信じながら、皆さんが無事で、いつか再び、皆さんと一緒に思い切り大声で歌える日を願っている。
パーソン・センタード・ケアを問い続けるOT